2009年05月06日
新緑
新緑が美しい季節になりました。
高校時代、この桜の木の下で、よく筋トレをしました。
腹筋をしていて、見上げた時、緑色の葉っぱが風でゆらゆら揺れているのを見るのが好きでした。
一月の初蹴りの時の桜の木とは、違う姿を見せてくれています。
風香る5月、新緑の香りがするのも好きです。



高校時代、この桜の木の下で、よく筋トレをしました。
腹筋をしていて、見上げた時、緑色の葉っぱが風でゆらゆら揺れているのを見るのが好きでした。
一月の初蹴りの時の桜の木とは、違う姿を見せてくれています。
風香る5月、新緑の香りがするのも好きです。



2009年05月06日
高校サッカー観戦~税理士を目指した理由と共に
毎年、5月の連休には、母校の高校のグランドに、サッカー部の後輩たちのインターハイの試合を見に行っています。
僕が、高校時代はとても弱かった。静岡県東部地区のベスト8に入れず、県大会に行けるチームではありませんでした。
勉強の合間に気分転換までとは言いいませんが、同好会的なのりでだれたチームでした。
僕らの代から、勝てるチームへの改革を目指しました。中2で腰を痛めて、中学時代10か月ボールを蹴れない時期がありました。
中学時代の腰痛がなければ、勝澤要先生の清水東高でサッカーをしてみたいという思いもありました。
高校一年の夏に腰痛が再発。自ら走って、厳しい練習をリードできる体ではありませんでした。
それでもキャプテンに選ばれ、短時間で密度の濃い練習、勝てるチームへの改革に挑戦してみました。
だれきった先輩を見ていた、同好会的なのりに浸っていたチームメートからは、「うちは中部の強豪校ではないから、そこまでしなくてもいいのではないか」という声もありました。
東部地区の整形外科では、「サッカーはできない。やめた方がいい。」と言われ続けて、「サッカーをしていいよ。」という医師を探していたら、東京まで通うことになってしまいました。高校二年の冬休みに勝澤先生の紹介で五反田の進藤カイロプラクティック治療院に入院、そこから高三の春のインターハイまでの復帰の道が開けました。
体が痛いのもつらかったですが、大好きなサッカーができずに、外から見ているだけ、外からチームの皆に声をかけることが大変でした。
多くの問題を抱えていました。
税理士がクライアントとする中小零細企業はたくさんの問題を抱えていますが、問題を多く抱え苦しんでいる自分もそんな世界では、力になれることがあるのではないかと思うようになりました。
この一言をみんなに言えば楽になるという思い、チームをまとめたり、改革する上で一人噛みしめた思いはいくつもありました。
人の上に立つ人の難しさを学んだとも言えます。
中小企業の社長さんたちは、一人噛みしめている思いがいくつもあります。そういう意味で社長は孤独であると言えます。
高校時代のサッカー部での経験が、企業の孤独な社長をサポートするという税理士の仕事にもつながっています。
「原点は高校時代にあった」、この言葉は、藤枝東高の同級生だった中山雅史(ジュビロ磐田、元日本代表)たち、プロサッカー選手がよく口にする言葉ですが、プロサッカー選手でも、税理士でも原点は変わりません。
チームは僕の下の3代くらいのキャプテンが「やっぱ勝たなければだめだ」という僕の意思を引き継いでくれて、5年後くらいには、常に東部大会の決勝を沼津学園(現飛龍高校)と争うようになり、県大会一勝、県ベスト16(静岡110チーム中)が目標になるチームになりました。
高校時代は苦労した思いしかありませんが、高校卒業後、監督だった青木伸明先生から「お前たちが犠牲になってくれたから、いいチームができたよ」と言われて、当時の苦労が少しだけ報われた思いもしたこともありました。
卒業して何年経っても後輩たちがどんなサッカーをしているか気になってしまいます。
インターハイは3年生にとっては、最後の大会、一試合でも多く高校サッカーをしようと一生懸命ボールを追っかける後輩たちはかわいくもあり、元気づけられることもあります。
新緑の美しい季節、これからも僕のインターハイ観戦は続いていきます。
現在の沼津東高校サッカー部監督の後藤至先生は、沼津三中サッカー部の先輩でもあり、僕は「いたるちゃん」と呼ばせてもらっています。
至ちゃん、沼東サッカー部のみんな県大会もがんばれ!!
そして、3年生は、とにかくサッカーに一生懸命になり、勉強もがんばれ!!





僕が、高校時代はとても弱かった。静岡県東部地区のベスト8に入れず、県大会に行けるチームではありませんでした。
勉強の合間に気分転換までとは言いいませんが、同好会的なのりでだれたチームでした。
僕らの代から、勝てるチームへの改革を目指しました。中2で腰を痛めて、中学時代10か月ボールを蹴れない時期がありました。
中学時代の腰痛がなければ、勝澤要先生の清水東高でサッカーをしてみたいという思いもありました。
高校一年の夏に腰痛が再発。自ら走って、厳しい練習をリードできる体ではありませんでした。
それでもキャプテンに選ばれ、短時間で密度の濃い練習、勝てるチームへの改革に挑戦してみました。
だれきった先輩を見ていた、同好会的なのりに浸っていたチームメートからは、「うちは中部の強豪校ではないから、そこまでしなくてもいいのではないか」という声もありました。
東部地区の整形外科では、「サッカーはできない。やめた方がいい。」と言われ続けて、「サッカーをしていいよ。」という医師を探していたら、東京まで通うことになってしまいました。高校二年の冬休みに勝澤先生の紹介で五反田の進藤カイロプラクティック治療院に入院、そこから高三の春のインターハイまでの復帰の道が開けました。
体が痛いのもつらかったですが、大好きなサッカーができずに、外から見ているだけ、外からチームの皆に声をかけることが大変でした。
多くの問題を抱えていました。
税理士がクライアントとする中小零細企業はたくさんの問題を抱えていますが、問題を多く抱え苦しんでいる自分もそんな世界では、力になれることがあるのではないかと思うようになりました。
この一言をみんなに言えば楽になるという思い、チームをまとめたり、改革する上で一人噛みしめた思いはいくつもありました。
人の上に立つ人の難しさを学んだとも言えます。
中小企業の社長さんたちは、一人噛みしめている思いがいくつもあります。そういう意味で社長は孤独であると言えます。
高校時代のサッカー部での経験が、企業の孤独な社長をサポートするという税理士の仕事にもつながっています。
「原点は高校時代にあった」、この言葉は、藤枝東高の同級生だった中山雅史(ジュビロ磐田、元日本代表)たち、プロサッカー選手がよく口にする言葉ですが、プロサッカー選手でも、税理士でも原点は変わりません。
チームは僕の下の3代くらいのキャプテンが「やっぱ勝たなければだめだ」という僕の意思を引き継いでくれて、5年後くらいには、常に東部大会の決勝を沼津学園(現飛龍高校)と争うようになり、県大会一勝、県ベスト16(静岡110チーム中)が目標になるチームになりました。
高校時代は苦労した思いしかありませんが、高校卒業後、監督だった青木伸明先生から「お前たちが犠牲になってくれたから、いいチームができたよ」と言われて、当時の苦労が少しだけ報われた思いもしたこともありました。
卒業して何年経っても後輩たちがどんなサッカーをしているか気になってしまいます。
インターハイは3年生にとっては、最後の大会、一試合でも多く高校サッカーをしようと一生懸命ボールを追っかける後輩たちはかわいくもあり、元気づけられることもあります。
新緑の美しい季節、これからも僕のインターハイ観戦は続いていきます。
現在の沼津東高校サッカー部監督の後藤至先生は、沼津三中サッカー部の先輩でもあり、僕は「いたるちゃん」と呼ばせてもらっています。
至ちゃん、沼東サッカー部のみんな県大会もがんばれ!!
そして、3年生は、とにかくサッカーに一生懸命になり、勉強もがんばれ!!





2009年05月03日
Sweet Soul 清志郎
清志郎が亡くなった。
車のステレオからは、『the TEARS OF A CLOWN』、86年の日比谷野音ライブ。
日比谷公園のあぶら蝉が鳴いている。清志郎はジャケットのクレジットでそんなことまで、教えてくれた。
清志郎はいつでもかっこよかった。
2回の闘病生活の闘いに入っていくときの「言葉」を僕らは忘れない。
「暑いぜ、ベイビィ~!」、「日比谷野音ベイビィ~!」、「イエィ!って言えぃ!イエ~ィ!!」
88年の夏の野音 『コブラの悩み』の映像はとても美しい。
アクセルを踏むのに、清志郎のSOULFULなSHOUTは例えようのない高揚感。
でも今日の車では、・・・・・。
夢見ること、愛すること、
清志郎は教えてくれた。
大好きでした。
僕はこれからも闘っていきます。
ありがとう、清志郎の歌はこれからも僕のともだちであり続けます。
忌野清志郎さんのご冥福を心よりお祈りします。
車のステレオからは、『the TEARS OF A CLOWN』、86年の日比谷野音ライブ。
日比谷公園のあぶら蝉が鳴いている。清志郎はジャケットのクレジットでそんなことまで、教えてくれた。
清志郎はいつでもかっこよかった。
2回の闘病生活の闘いに入っていくときの「言葉」を僕らは忘れない。
「暑いぜ、ベイビィ~!」、「日比谷野音ベイビィ~!」、「イエィ!って言えぃ!イエ~ィ!!」
88年の夏の野音 『コブラの悩み』の映像はとても美しい。
アクセルを踏むのに、清志郎のSOULFULなSHOUTは例えようのない高揚感。
でも今日の車では、・・・・・。
夢見ること、愛すること、
清志郎は教えてくれた。
大好きでした。
僕はこれからも闘っていきます。
ありがとう、清志郎の歌はこれからも僕のともだちであり続けます。
忌野清志郎さんのご冥福を心よりお祈りします。
タグ :忌野清志郎